2008年 05月 15日
ふたり
同じクラスになったことはなかったのですが、お互い鼓笛隊でトランペットを担当したのがきっかけで、毎週いっしょのトランペットスクールに通い、いつも行動を共にしていた仲間でした。
私は小さい頃ピアノを習い、H君はエレクトーンを習っていました。しかし「嫌々」習って全然上達しない私に比べて、彼はぐんぐんと実力をつけ、将来は音楽系の学校に進もうなんて夢を持つまでになりました。
考えてみたら、万事がそんな感じでした。トランペットの腕前も、誰より抜きん出ていたのはH君でしたし、勉強も、スポーツもトップクラスの人気者でした。いつも「あと一歩なんだよねぇ」と先生から言われていた私にとって、彼は親友でありながらとても「まぶしい」存在でもありました。
H君は物知りで、ちょっと大人びた子どもでした。私は彼からいろいろなことを教えてもらったものでした。
「悪」もちょっとだけ教えてもらいました。まあ、当時の小学生の「悪」なんてかわいいものなのですが、それが大人に見つかり、いっしょにお説教をくらったりしたこともありました。
H君は毎週日曜日に「教会」に通うという、真面目な一面も持っていました。クリスチャンだったのかどうかはわからないのですが、ある日私も誘われ、一時期教会通いなんてこともしていました。まあ、私はあくまでも「遊びの延長」という気分だったのですが。
しかし、学区が違い、それぞれ別の中学校に通うようになり、私たちはだんだん付き合うことがなくなってきました。同じ学校の友達と付き合い、ブラスバンド部の友達と付き合い、学習塾にも通い、慌ただしく過ぎていく中学時代、それはそれで仕方がなかったことなのでしょう。しだいに私はH君のことも忘れがちになっていたのでした。
H君が白血病で亡くなったのは、中学1年の冬でした。
私は、彼がそんな重い病気だったなんて、全然知りませんでした。
確かに小学校卒業間近にちょっと入院したりしていたのですが、まさか亡くなるなんてこと、想像もしていませんでした。
実は、彼が亡くなる直前、以前通っていた教会でクリスマスパーティーをするから来ない? と電話で彼から誘われていたのですが、私は他の友達との約束を優先してしまい、断ってしまったのでした。
H君はちょっとがっかりしたようでしたが、それでもお互いの近況報告などして電話は切れました。彼の声は元気そうで、まさかその1か月後に亡くなるなんて、思ってもいないことでした。
彼はどんな気持ちだったでしょうか。私から拒絶されたと思ったでしょうか。それが、いま思い出しても、悔やんでも悔やみ切れないことです。
突然の事故で姉を亡くし、その「ユーレイ」が妹の成長を助けていくという、大林宣彦監督「新・尾道三部作」の第一弾、映画「ふたり」を観ると、いつもH君のことが思い出され、その思い出と一緒になって涙が止まらなくなってしまいます。
彼は亡くなる直前、「死にたくない、ボクにはやりたいことがたくさんあるんだ。ずっと生きていたいんだ」と叫び続けていたのだそうです。生きるのが当たり前だと思っている私たちにとって、これほどせつない叫びはありません。自ら命を絶とうとする人に、H君のことを言ってやりたくなる気分です。
ただ、この映画を観ると、H君は死んではいない、どこかで絶対、残された家族のことを、友達のことを、そして私のことを見ているに違いない、と思うことができるのです。
「どこか」とは、心の中。心の中で彼を呼び出せば、彼はきっと答えてくれるはずなのです。
「へぇー、まだそんなこともできないの?」とか、「もうちょっと粘ってみたら?」とか、あの頃の少年のままで、あの頃の口調で、すっかりオジサンになった私に、兄貴ぶって言ってくれるのです。
もう30年以上も前のことなので、もしかしたら彼は、もう別の人物に生まれ変わって、前世で体験できなかったさまざまなことを、思う存分味わっているのかもしれません。
しかし、私は彼を、もう一度世に出そうと思っています。どういう形かはわからないけれど、そうすることで、あの、クリスマスパーティーを断ってしまった「つぐない」が、少しでもできるのではないかと、思っているところです。
私もまた、「もうちょっとがんばれば、ねえ」と言われていた万年Bクラスの人間で、いつもまぶしく見上げる友達を慕って付きまとうというタイプの人間だったことです。そのときの親友は同じように国語の教師となったのですが、私はさっさと結婚を機に退職、彼女は今も高校で65歳まで勤めると言ってがんばっています。
もうひとつ、白血病で長男の友達が、3歳でなくなったお隣の家の子と、高校1年でなくなった子とがいます。どちらもとても身近に接していた子で、高1でなくなった子は、無菌室でいやな薬も毎日飲んでがんばっていたそうですが、未来のある子だったのにとても残念な思いがしました。ましてやご自身の体験となれば、お友達への思いも強烈なものがあると思いながら読ませていただきました。
いま、最後の三部作を観て、また尾道に行きたくなってしまいました。次回は倉敷にも足を伸ばして、お会いできればいいなあなんて思っています。どうぞよろしく。
ところで、大林監督はもう二度と尾道映画は撮らないのでしょうか。大和にずいぶんお腹立ちだったようですけど。
大林監督は「大和」にご立腹だったのですか。うーん、オレは観ていないのでなんとも言えないのですが、またぜひ尾道で作ってもらいたいですね。でも、尾道もだんだん叙情的な場所がなくなりましたね。
泣きました。上京してきて、ずっと一緒に育った妹と離れ離れに
なった直後だったので凄く響いてしまって。
作中の「草のおもい」の歌も美しくて大好きです。
でも、それぞれみなさん、いろんな思い出とともにこの映画を観ているのだなあと思いました。名作ですね。
尾道は少しずつ変わってしまっていますが、坂道はまだ変わっていませんし、神社やお寺はそのままの雰囲気を保っています。
私ももう一度、いや二度、三度、行きたいところです。